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JAグループ高知災害支援活動に参加して
管理部業務課 井沖 勝

6月20日。東京駅から東北新幹線やまびこで仙台へ向かう。車両内の棚は大きな黒いバックがぎっしりで、旅行と思われる乗客はいない。仙台駅構内では照明がほとんど消されており暗い。土産物店やレストランも最低限の照明で営業しているため、夜のバーみたいである。外に出ると警視庁のパトカーが巡回している。杜(もり)の都仙台の雰囲気はない。

 

21日。バスで支援先、東松島市に向け出発する。山あいの閑静な住宅街の間を下りながら30分もすると、車窓からの眺めは一変する。多くの犠牲者が出た仙台市若林区。沿岸部から2kmも離れている住宅地や田園地帯は津波の泥で全て真っ黒である。

初日の支援先、大曲地区に到着する。津波での犠牲者が出ており、沿岸部から2kmの地区であるが、排水機能を失った側溝は汚水であふれ、虫が湧いている。60歳の農家のビニールハウスに入った。10cmを超えるヘドロで埋めつくされ異臭が漂う。暑さとヘドロの重さでの疲労で、一斉30分作業10分休憩の繰り返しを徹底せざるを得ず、作業は容易に進まない。午後、作業がもう少しで完了しようかという頃、激しい雷雨となり無念の作業終了となってしまった。

ほうれん草栽培のハウス7割を失い、自宅も損壊した農家の方から感謝の言葉を頂いたが、その声に力はなく、最後まで笑顔は見られなかった。

 

活動二日目。東松島市野蒜地区。傾いて止まったままの2両編成の電車を目の前に、農家のビニールハウスにてヘドロ除去及び処分物の撤去作業を行う。泥にまみれた水菜や自宅の子供服を処分する作業は胸が痛い。

川の河口と海に接したこの地区の死者・不明者は500人にのぼり、地震当初から報道されていた。機動隊が不明者を集中的に捜索している。ほとんどの家屋が流失し、わずかに残った家屋も損壊は激しい。JAの二階建ての支所も屋上のはるか上まで津波が襲ったとみられ、職員も亡くなったという。あまりに悲惨な状態に涙が出た。住民は一人もおらず、聞こえてくるのは波の音だけである。

 

活動三日目。石巻市門脇地区。70歳の農家のビニールハウスにてヘドロの除去を行う。雨の中での作業だが、隊員全員が使命感に燃えており全く気にならない。予定より早く作業が完了したが、まだやりたいという声が隊員のあちこちから出る。

バスに向かう途中、番号で識別された50体以上の土葬された仮の墓地があった。手を合わせる。当時、火葬場で対応しきれなかったとの事。地元紙には震災で亡くなった方の葬儀の死亡広告が毎日掲載されている。

漁港と工業港の2つを持つ石巻港を案内して頂く。水産加工工場や油脂、肥料工場が多いが津波で壊滅しており、手付かずの状況である。魚の腐敗臭、油・肥料の異臭が強烈で、マスクなしでは数秒で嘔吐しそうになる。住宅地では洗濯物を干せないらしい。

 

3日間、心をこめて活動させていただいた。少しではあるが、復興に向けての一助にはなれたかもしれない。しかしながら、被災地の農家の方々の喪失感、絶望感は私が思っていた以上に大きい。また20人の隊員で3日間活動しても、その量としては全体の僅かである。正直なところ、満足感や達成感は無い。

どの地区でも感じたことだが、人手不足と1mの地盤沈下等による衛生状態の悪さは深刻だ。長期的かつ早急な支援が必要である。

 

今回の支援活動で私はたいへん貴重な経験をさせて頂いた。命の大切さ、普通に生きていくことの難しさや有難さ、そして津波の怖さ。これからの仕事や生活に活かさなくてはならない。

最終日の夜、仙台青葉通りを歩いた。中暦にあたる8月7日には仙台七夕まつりが開催される。市民歌ともいわれる「青葉城恋唄」は今聴くととても悲しい。

ふさわしい言葉が見つからないが、被災された農家の方々の一日も早い再開を祈るばかりである。

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